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収納なき整理術

知り合いと佐藤可士和の整理術の話になる。
そこで思いつくままにしゃべっていたら整理術について
意外なことに気づいたので忘れないうちに書いておこう。

机の上や部屋が片付いているかどうかは
整理ができるかどうかとあまり関係ない、というのが今日の仮説です。

机の上にあったものを引出しに仕舞うのはただの整頓。
たとえ机の上にモノが散乱していても
それが必要なものばっかりだったら整理してある
と言っていい気がする。

僕はむしろパソコンのデスクトップなんかは
処理すべき書類をできるだけフォルダに仕舞わないようにしてある。
「すぐには手をつけないけれど後になって必ず必要になるもの」
を保留の状態で目につく場所に置いておくことで
保留の力、知的な持久力を保っているのです。
ま、デスクトップが散らかってる言い訳でもあるんですが。

「仕舞う」は「終う」。
しまったが最後、もうほぼゴミです。
取り出さなくなるものは仕舞ってはいけない。
安易に仕舞うくらいなら捨てた方がいい。

仕舞われた瞬間にさっきまであった有用性が死に絶え
次に思い出されてるまでひっそりと死に続ける。
その悲哀を知っていれば本当に机にあるべきものを
想像力をフルに使って感じとるようになる。
それこそが整理する力だと思うのです。

整理術の本質は机の上や部屋をきれいにすることではなく
自分に必要なものを見分ける能力を涵養することにある。
つまり整理とは「自分は何がないと生きていけないか」
あるいは「自分は何がなくても生きていけるか」
を判断する事に他ならない。

極端な整理術は旅な気がします。
だって余計な荷物を持って旅はできないから。
「日々旅にして旅を栖とす」は松尾芭蕉の有名な言葉。
自分はこの言葉を「余計なものを持たずに生きよう」
というメッセージとして受け止めている。(たった今そう思い付いた)

手に持てるものだけを持って旅して生きようって。
デスクトップに並ぶ分だけでなんとかしようって。
そうか。
知的持久力って旅でいうと体力なんだ。
いろいろ抱えながらもぼちぼち歩いていける思考の体力。
(これもいま思い付いた)

整理術に収納なんていらない。

収納なき整理術。
そういうの好きです。

って、可士和の整理術の本がそういう内容かどうかは知りません。
読んでないので…

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生け花考

さっき、駅から帰るときにふと目についた
「○○流 生け花教室」の看板。

あっ!と思ったのは生け花の「生け」の部分。
これは「いきとしいける」とかに使う「いける」だな、きっと。

生きる、でもなく
生かす、でもなく
生ける、なのです。

英語のフラワーアレンジメントは
どちらかというと「生かし花」な気がする。

たぶん「生ける」を花に対して使ったのは
そういう態度で自然に接していたことの現れなんだろうな。


うむ。

さっき気づいたことなので
まだ全然まとまらないけどまずは覚書としてここに。

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始まりはいつも理不尽

某企業での情報フィルタリングの話をひとつ。
この企業で実施された情報フィルタリングはつまりネットの使用制限です。
「無駄にネットなんか見てるから仕事の効率がさがるんだ。
娯楽やらスポーツやらは見れないようにしといたのであしからず」
って一方的な通達があったと。


んー。
サイトのフィルタリングって意味あるのかな。
どれは見てよくてどれは見てはダメか、誰が決めるんだろう。
ネットから得た情報が逆に仕事に生きている場合も多いわけで。

知の余白を許容できないこの状態を見て自分が感じたのは
フィルタリングへの不満やフィルタリングの是非を問う必要性ではなく
これが企業の体力減の兆候じゃないかという不安。

体力の落ちはじめに実施される政策はたいてい
経営に直接的に影響しないところから始まる。
少しでも効率を上げるため、という名目で実際には効果の少ない
それでいてポリティカルにコレクトな箇所から手をつける。
これが常套手段、というか病の初期症状であるように思う。
良く言えば必死の「コストダウン」。
悪い言えば儲からない事の「言いがかり」。
ネットのフィルタリングはまさにそれと感じる。

ポリティカルにコレクト、つまり政治的に正しい。
これが意外に曲者な気がする。
ま、いつもながら受け売りですが。

(何が無駄かは別にして)無駄な時間を省くのは確かに正しい。
でも正しい政策が必ずしも妥当で効果的とは限らない。
戦争の本当の恐さは健康な思考が蔓延する事だと
そんなニュアンスの事を吉本隆明さんが言っていたっけ。
正しい考え以外の考えが排除されはじめたら要注意なのだと。

この企業
おそらく近いうちに交際費や交通費や物品購入等に関しても
理不尽な(それでいて”正しい”)制限がかかるはずです。

と書いたところで思い出した。
その中のいくつかはもう既に通達があったって。
いずれ減給やリストラのような直接的な政策もでる事でしょう。
こんな嫌な予言はしたくないけれど考えるほどに
蓋然性の高い予想だって気がしてくるのです。

くわばら、くわばら

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[展示] 夏の邸宅

舟越桂『夏の邸宅』展を見に
雨の中、目黒は庭園美術館に。

舟越さんの木彫の人物はどれもすごくきれいで
それでいてどこか怖いような感じがする。

正直に言ってしまうと何だかよく分からない。
それぞれの作品がどうしてそうなるのかが。
作った本人にだって分からないのかもしれない。

でもきっとすぐ分かるものなら作る必要も見る必要もないんです。

何だかよく分からないものをよく分からないものとして受け入れる。
それが保留の力。知的持久力。

最近思うのは
表現したい事が先にあって作品を作るのではないという事。
作ったモノ、作る過程、他人の評価、を通じて
自分が何を表現したかったのか、あるいは
意図せずに何を表現してしまったのかを事後的に知る、
というのが作る事の本質な気がする。

卑近な話だけれど
「好みの異性のタイプ」もそれに近い。
過去に好きになった人、付き合ってきた人を振り返ってみて
初めてその見た目や性格の傾向が分かるに過ぎない。

「好みのタイプ」という枠を設定してそれに会わせて
人を好きになったり付き合ったりする事が本末転倒なのは
多くの人が感覚的に知っているんじゃないかな。
でも作る事となると案外気付けない。

人を好きになった経験がなければ好みのタイプが分からないわけで。
同じく、作った経験がなければ表現したい事もわからない。
とにかく理由とか理屈は抜きで作ればいい。

と、自分に言い聞かせるこのごろ。



ともあれ雨の庭園美術館はこのうえなくセンチメンタルで
それだけでも脚をはこんだ甲斐があったな。
ここ一週間が嘘みたいに秋になってしまったかのような涼しさです。

いつの頃からか雨が好きになったなぁ。

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[映画] 崖の上のポニョ


連日の映画三昧。
盆休み万歳。


宮崎駿監督
『崖の上のポニョ』を見る。

昼に行ったら混むと思って夜見てきました。
しかも26時からの回。
そんな時間から映画を見るもんじゃないな。
眠くてしょうがない。


それはともかくとして映画はよかったです。
海のなかのシーンがすごく好き。
「おー、これ手で描いたんだー」って感じ。
CGを使ってない事でも話題のこの作品、
その評判は間違ってない。

ストーリーは脈絡なく理不尽なんだけど
そんな事はどうでもいいって気にさせるような生命力が
作品の最初から最後まで溢れてる。


宮崎監督はいつまでも子どもだな。
しかも『ポニョ』は改めて子どもに立ち返ったような作品でした。

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