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幻想だけどそれでいい

最近、読み始めた本が面白い。

『脳のなかの幽霊』

V・S・ラマチャンドラン
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切断された手足がまだあると感じるスポーツ選手、自分の体の一部を人のものだと主張する患者、両親を本人と認めず偽者だと主張する青年—著者が出会った様々な患者の奇妙な症状を手がかりに、脳の仕組みや働きについて考える。さらにいろいろな仮説をたて、それを立証するための誰でもできる実験を提示していく。高度な内容ながら、一般の人にも分かりやすい語り口で、人類最大の問題「意識」に迫り、現代科学の最先端を切り開く。
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ないはずの手足に痛みを感じるのはなぜか。
すごく簡単に言ってしまうと「脳が痛いと感じるから」…。

びっくり。
そうだったのか。

つまり痛みは脳が作り出している。
極端な表現をすれば痛みは幻想の一部でしかない。
手足があるかどうかは痛みを感じるかどうかには直接的には関係がない。

なるほど理屈はわかる。

で、そこで気づいたのは
「痛みが幻想なら、じゃあ、暑いとか寒いとかおいしいとか
 笑いとか悲しみとか幸せとか愛とか嫉妬とか、
 そういう感覚とか感情だって幻想なんじゃない?」ってこと。

何を食べたかはおいしいかどうかに直接的には関係ない。
何を見聞きしたかは笑うのに直接的には関係ない。
相手が誰であるかは恋をするのに直接的には関係ない。

そう言ってしまうのはかなり抵抗があるけど…。
でもこの考え方は考えれば考えるほど仮説として有効に思える。
「おいしい食べ物は存在しない、おいしい食べ方があるだけ」っていう
いささかひねくれた自分の持論とも平仄が合う。
「おいしいさ」は実定的なものではない。

同じものを食べても状況で味の感じ方が違うとか
笑い転げたおもしろ話を誰かに伝えてみたらひどく醒めてしまったとか
自分でもまさかと思う相手を好きになるとか
その類いのことおは誰でも経験的にわかる。

ただし、ここで大事なのは
「すべて幻想なんだから何を食べたっていい」わけではないってこと。
そして「理屈で納得しても感覚や感情はなくならない」ってこと。
時として幻想は有用で人間を支える唯一の材料にもなりえる。

「母性愛は幻想である」というフェミニストの主張についての
内田樹さんの言葉を(うろおぼえながら)引用すれば
「母性愛が幻想であることには同意するが
幻想であるから捨ててしまった方がいいという考えには同意できない」と。


んー。
まだうまく言葉にできないけど。

脳が感じるのが幻想だと分かってしまったからといって
生きているのがつまらなくなったりはしない

と、そんな事を感じたわけです。

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頑固親父の血

30歳になって2ヶ月。
20代と何かが変わったような実感はないけれど。
ふと考えてみたら父が30歳の時に兄が生まれている。

追いこしてしまったなぁ。


そんな父も3月で仕事を終える。
未だぶらぶらと独り身で生活している自分から
少しは両親に小遣いでも渡したいと思って
実家に戻った時に提案してみたところ…。

そんな事を思い付くぐらいには大人になった自分に
母は嬉しそうだったけれど
父は頑として「そんなモンはいらん」的な態度。
曰く
「自分たちが生活できる分くらいは今まで準備してきたし息子(僕と兄)や
その家族が大変な時に手助けできるくらいの事はしてある」
とのこと。

素直じゃないな、などと思いながらどこか照れくさくもあって。

正義感に満ちた頑固親父に凹まされた直後だったけれど
父親然たる態度を崩さない別の種類の頑固さには
尊敬と感謝の念が湧いてくる。


いつか自分が父を助ける立場になった時に
「親父も歳とったんだから素直になればいいんだよ」などと
息子然たる態度で接してやろう、と心に決めた自分には
やはり頑固親父の血が受け継がれているらしい。

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でたらめさではなくかたくなさ


最近は正義についてよく考える。
前回の「正義にやられて」しかり。

そんな時に出会ったのが内田樹さんの言葉。

「私達の自己中心性と愚鈍さの核にあるのは、
 判断基準のでたらめさではありません。
 むしろ、判断基準のかたくなさです。」

なるほど。
正しさを強固に主張する人に違和感を覚えるのはそれか。

正しい事が必ずしも正しいとは限らないし
正しい主張に必ずしも実効性があるとは限らない。
そんなのは考えてみたら当たり前の事で。

じゃあ自分の判断基準の信用を担保するのは何か。
それは自分の判断基準を疑って他者の判断基準と折り合っていける
そんな知的な姿勢でしかないように思う。
自分の判断基準を疑える事
それが自分の判断基準を信用する根拠である。
これは矛盾のようで矛盾でない。

最近『地球温暖化予測は「正しい」か?』
という本を読む機会があった。たまたま手に取った本なのだけれど。
温暖化予測がどうやって計算されているかという内容で
書いてある事が難しくて本当なのかどうか判断できない。
にもかかわらず著者を信用できると感じられる。

書いてある内容が分からないのに何で信用できるのか。
たぶん著者の姿勢、立ち位置を言葉から感じるからなのだと思う。
地球温暖化の議論は「温暖化防止論を叫ぶ」か
「温暖化防止論の瑕疵を叫ぶ」か、に二極化してしまっている。
その中で「自分の考えが限定的であって正解ではない」
という事がわかっている。
温暖化について書いた本でそんな印象を受ける本は初めて。


信用に足る判断をするには基準を問い直し続けるしかない。
そして問い直す時に「その考え方が正しいか」ではなく
「その考えは心地いいか」
「その考えは共感してもらえるか」
「その考えは排他的でないか」
「その考えは耐用年数が長いか」
といった別の視点からみるのが有効じゃないかと思う。

なかなか実践の難しい問いではあるけれど…。



前回の「正義にやられて」 で親と言い合いになった話を書いた。
実はそれには続きがあるのだけれど

長くなるのでまた次回に。

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正義にやられて

先日、久しぶりに実家で夕飯。
両親と世間話をしているうちになぜか気づけば言い合いに。
何でそんな事になったのかよくわからないけれど…。

格差社会で特に若い世代が抑圧され自由を奪われている
というような話に自分が違和感を覚えたのが発端で。
もちろんそれは心配や正義感から出る言葉なのだろうけれど。

「若い世代は抑圧される事に慣れてしまって普通だと思い込んでいる」とか。
「どの立場に立ってものを言うのかはっきりさせろ」とか。
「いろんな考えを認めているようでいて結局お前はひと事だ」とか。

どうも言葉が染みてこない。
まるで学生運動の頃のストックフレーズみたいな台詞に違和感が。
話し終わってひどく疲れる。

なんだか割り切れない気持ちで布団に入って
天井を眺めているうちにふと切ない気分に。
正義とか理屈とか、そういう事と関係なく
ただ受け入れて欲しかったんだなぁ、と気付いたわけです。

「確かに世の中は厳しい状況だけど、楽しく真摯に生きてれば大丈夫。
 どうしようもなくなったら何とか手助けしてやるから。」
と、ただそう言って欲しかったんだ。きっと。

そしてもう一つ気付いたのは
自分も誰かにそう言ってあげられるようになりたいんだってこと。
自分の周りにも楽でない状況の中を不安定ながらに
充実しながら生きている人達がいる。

体調を崩して仕事がうまくできないでいる人
アルバイトをしながら作品を作っている人
会社を辞めてフリーランスになった人
契約を切られて受験勉強をしている人
そして極端に言えば未だ見ぬ自分の子供にも。


「君たちは大きな力に抑圧されている。それを正さなければならない。」
という言葉は確かに正しい。
けれど正しい言葉が厳しい状況にある人達を助けるとは限らない。
そればかりか時にひどく傷つけさえする。

厳しい状況の中だからこそ自分の選んだ路やその道を選んだ自身を
肯定しなければ生きてはいけないはずなのに。
正義感から発せられる言葉が
「抑圧される事を肯定している」という非難に聞こえ
「正義を唱えないのは怠惰だ」という叱咤に聞こえる場合もある。


「私は正義を知っている」と語る人をどうも信用できない。
果たして長い歴史の中で正義が貫徹されて全ての人が
満ち足りた人生を送った時代などあっただろうか。
おそらくない。そしてこれから先にもないだろうと思う。

大事なのは現場感覚であるように感じる。
正義が間違っているのではない。
あるべき姿を模索していく事と
あるべき姿を見つけられないでいる人を支援する事。
どちらも同時に進めていくのが知的なやり方だという気がする。

そしてまず最初に手を付けるべきは後者だろうと。
そう思う。

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だけどやっぱり丘が好き


社員旅行で沖縄に行った話を書いたのが前回。
で、沖縄と言えば海。

今年は沖縄でも暖かい冬らしく寒がりの自分でも海に入れるほど。
(でもそれなりに寒かったけど)
初体験のウェットスーツを着てシーカヤックとシュノーケリング。
ついでに小さなガマ(洞窟)まで入ってアウトドア満喫。

波の上も砂浜も心地よかったし
海の生き物もキレイで不思議だったし
なかなか楽しんだわけです。

にもかかわらず、海からあがって一番感じたのは
自分は海より陸が好きだってこと。

陸が好きというよりは海が自分の世界の外って感じ。
生命の始まる場所でありながら、死に近い場所。
人間なんてあっという間に死んでしまってもおかしくない。
海水も魚も珊瑚も自分の存在が遥かに及ばないもの。

なんだか数年前に屋久島の山に登った時の感じを思い出す。
水になりたい、岩になりたい、木になりたい、土になりたい
そんな不思議な親密感と同時に感じる疎外感。
登山靴を履いて雨具を着て十分な装備をしないと
親密感を感じられる場所までたどり着くことさえできない事実。
自分と山とが別の領域にいると痛感させられた事を記憶している。

海はその疎外感を絶望的なまでに自分に突きつけてくる。
全然親密じゃない。畏怖の対象。

もちろん海との対話の仕方が未熟なせいもある。
自分がバスケという方法で重力との対話を模索するように
サーフィンで波と対話するのに夢中な人もいるわけで。
それはそれで羨ましくもあるけれど
自分にはこの先にもたどり着けなそうな領域だって気がする。

残念ではあるけれど。
あこがれでいいのだとも思う。

かっこいいいね。
海人。

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