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『ミヒャエル・ゾーヴァ展』

久しぶりに絵を見に銀座は松屋に。
ミヒャエル・ゾーヴァ展

この名前を聞いた事がなくても
映画『アメリ』の劇中に作品が使われている、
と言えばピンとくる人も多いかもしれない。

小さな作品がほとんどだったけれど、それが作用してか
独特のリアルでシュールな世界に引き込まれてしまう。
作品中に多く描かれている動物の表情がなかなかいい。
かわいいだけじゃない。

期間は短いけれど、いろんな人にお勧めしたい展示。
時間があればぜひどうぞ。

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よいしょっと

ブログの更新も久しぶりな気が…。

4月はあまりの忙しさにめげてブログを放っておいたので
5月からは少しずつ復帰しようかと。

最近、いろいろと考える事は多いのだけれど
なかなか言葉にのせられるほどまとまらない。
自分の力のなさを思うと同時に焦りや危機感も感じる。

言葉にする力が不足している事への危機感ではなくて
言葉にならない事を理由に更新しないでいられる事への危機感。
まとまっていないと言葉を表に出せない小心への危機感。

ひとまず浮かんできた言葉を書き留めるだけでも良しとしよう。

というか
そもそも自分のメモ帳的なブログだったはずなのに
今頃になって何をビビっているんだろう。

うむ。


書いたらいいんだな。
メモでもなんでも。

フットワーク軽くいきましょ

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妥協点と到達点

ここ2週間くらい仕事が忙しくて
ブログの更新なんて思いつきもしなかったくらい考え事をしない日々。
久しぶりにしんどかった。

その忙しさの原因の一つが職場の事務所移転。
いる物といらない物を分けてとにかく大量に物を捨てる。

でも、たまに使わないけど捨てられない物もあって
その中で家に持って帰ってきたのが「写植級数表」。
パソコンを使ったDTPが当たり前の時代に
写真植字のための表が妙に美しくて惹かれてしまう。

どういう気まぐれかそれを
家のトイレの壁に貼ってみることに。
トイレと写植級数表。
なんと縁遠い存在を結びつけてしまったんだろう。



縁遠い話をもうひとつ。
先日、友達と飲んでいて「妥協点」と「到達点」の話に。

まったく対極にあるかのように感じられるこの言葉も
ある場合には同じ結果から得られるという考え方にグッとくる。
その友達は最近結婚したのだけれど
長年の腐れ縁のような相手との結婚で。

悪く言えば諦めだと、そういいながらも
ようやくたどり着いたのだと、すごく自信を持っているように感じられて
その新しいスタートをとても嬉しく思うし尊敬するのです。

これは人間関係に限らず物を作る事にも仕事にも通じる話。
「ここまでしかできなかった」と感じるのではなく
「ここまでできた」と感じるまでやりきれたら
少なくとも後悔はしないでいられる。


後悔しないで生きたいなぁ。

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視線の先に

人間には視線を感じるニューロンがあるらしい。
視線が向けられた時にそのニューロンがはたらく。
視線がそれた時にはその隣のニューロンがはたらく。
被写体がカメラのレンズを見つめている写真と
レンズの数センチ横を見ている写真を見分ける事ができる。
さらには目があわなくても視線を感じる事ができる。

おそらくこれは見つめる事によって発せられるメッセージの
ほとんどが好意か敵意のどちらかであって
どちらも適切に受け取らなければならないメッセージだからである。
視線をおくること自体が重要なメッセージであり
コミュニケーションを構築する材料となる。

昔「人の視線に気付くのは視線が物質だからではないか」
と、そんなSF的な雑談をしたことがあった。
今考えれば物質だから視線に気付くわけではない。
それは単純に視線を感じるニューロンを持っているからであって
視線が人間にとってコミュニケーションの
重要な役割をはたしているからなのだと思う。


そしてここからは自分の希望的な想像だけれど。

視線をおくられた人間は勘違いしやすい。
必要以上に好意や敵意を拡大して受け取りやすい。

好意にしても敵意にしても過小に受け取れば
生存や繁殖に関わる重要な判断の失敗につながる。
人に好かれているのに気づけないのがいかに勿体ないことか。
或いは自分の命を狙う存在に気づけないのがいかに危険なことか。
逆に好意のメッセージを過大にとらえたとして
生存や繁殖の機会が増えることはあっても減ることはない。
敵意もこれと同じで過大に評価しておけば
戦うよりも避ける方法を選ぶだろうから生存の可能性は増える。

人は視線のメッセージを過大に受け取る傾向がある。
だとすればつまり

好意を持って見つめられると無意識に高揚し
視線のメッセージをおくった相手を意識するようになる。
敵意を持って見つめられると無意識に嫌悪し
視線のメッセージをおくった相手を避けるようになる。

そんなことがあり得るんじゃないかと。


そんなわけで
今日も僕は隣の女の子の横顔を見つめてみるのです。

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幻想と現実のあいだに


感覚や感情が幻想である、と書いた。のが前回。
そこを再考。
「幻想」という言葉を使うとうまく伝わらないのかな、と。
どうしてもネガティブに聞こえてしまう。

もう少し正確に言えば
主観的に感じている事は全て脳が生み出している。
という事であって
その主観が現実と相即していれば幻想とは認識されない。

でもやはり
脳が生み出す主観であるという意味においては
「現実に相即した痛み」と「幻想」との区別はない。
腕が痛いと感じた時に腕がなければ幻想だと認識するし
腕をぶつけた直後ならぶつけた影響だと認識する。

ここで新たな疑問が湧いてくる。
じゃあ「主観と現実が相即している」って状況は何なのか。
何をもって主観が現実と対応していると言えるのか。
どこからが幻想でどこからが正常な認識なのか。
自分に赤く見えている色が
他の人に黄色に見えていないとホントに言えるのか。
器用と不器用の違いは現実と主観の対応関係の問題なのか。


全然、解らない事だらけ。


自分は器用な方だとよく言われる。
器用ってどういうことだろう。
単純に考えると頭が思う通りに身体を動かせる能力。
つまり主観に現実を近付ける能力なのだけれど。

でも逆だと言えばそういう気もする。
例えば飛んできたボールをキャッチする場合。
ボールはどう考えても現実であって
そのボールとの距離をはかったり
キャッチのために身体を動かしたりする主観は
ボールという現実が先にあってそこに寄り添っていくのだから。
器用さは現実に主観を近付ける能力でもある。


何だかよく解らないことに…。

ま、どっちも器用さの重要な要素なんだと思う。
主観と現実の行ったり来たり。
主でも従でもない同時で双方向的なやり取り。

そこには幻想と正常な認識の境目なんてないはず。

自分が正常な認識の中で日々を過ごしていると思っていても
かなりの部分で幻想が作用していないとも限らない。
そんなふうに思うと不安もあるけれど
その不安だって幻想じゃないとは限らない…。


*************
とそんな事を仕事後に会社のPCでうっていたら
帰りの電車の中で本の続きにこんな言葉が。

「あえて大げさな表現をすれば、おそらく私たちはいつも幻想を見ているのであり、私たちが知覚と呼んでいるものは、どの幻覚が現在の感覚入力にもっともよく適合するかを判断した結果なのである。」

先をよまれて答えを書かれたかのような絶妙なタイミング。
まさに

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