ブログ

メイン | 一覧

構造屋の見る「骨」展

SFTに行こうと六本木に。
駅を降りて向かう途中にミッドタウン内で
「骨」展のポスターを発見して立ち止まる。

左に曲がるはずの角を右に曲がって
導かれるように21_21 DESIGN SIGHTに直行。
なかなか面白い展示であった。

目にとまったのはダチョウの全身骨格。
その美しさにしばし見とれてしまう。
形態の美しさももちろんだけれど
なぜんそんな構造であるのか全く分からない
その不可思議さが強く自分を惹き付ける。

構造とはなんであろうか。
それは人間を超越した何かが作り上げた
人間には到底はかりしれない秩序である。
時にその秩序は自然と呼ばれる。

「自然が美しい」のはなぜか。
いや、結論から言ってしまえば自然が美しいのではない。
秩序は目に見えない。見えないにも関わらず
触れた時の心身の高揚感を通じて存在を確信できる。
その秩序に対するシンパシーや畏敬の念といった高揚感を
人間が「美しい」と形容したに過ぎない。
順序が逆である。

ある場合には秩序を「美」と呼ぶし
ある場合には「宇宙」や「真理」と呼ぶし
そしてある場合には「神」と呼ぶ。

自分が紙で構造を作っているとごく稀に
その秩序に予期せず触れてしまう事がある。
自分がなぜそこに触れる事ができたのかすら分からない。
自分のコントロールできない何かによって
秩序に触れてしまった瞬間をして
「神が降りてきた」と表現するのである。

秩序に触れた時の高揚感は
誰かに評価されるそれとは次元が違う。
良い悪いも上や下もなくただ次元が違う。
一度この高揚感を味わってしまうと
もうその快感を忘れる事ができない。

その快感を忘れる事ができない人
これを「モノを作る専門科」と呼ぶ。

という仮説をたった今、書きながら思い付いた。

| コメント(0) | トラックバック(0) |

ほしにねがいを

七月七日である。
梅雨にしては珍しく晴れていて
願いごとも叶いやすいのかもしれない。

ラジオではリスナーの願いごとを読み上げたり
街では笹に短冊をかけたりしていつもと変わらない七夕の風景。
仕事の帰り際に短冊を手渡されたので願いごとを考えてみる。

で、思い付いたのが
「全ての人やモノとの関係を幸せな形で永続させたい」
ということ。

人間関係では、家族や友人や同僚はもちろん
電車で向いに座った人、自分を傷つけるかもしれない人
未だ出会っていない未来の知人、そして死者。
モノでは、服や靴、電化製品や家や布団、
地面や雨や風や、そして自分の身体。

そいういった自分を取り巻く全てとの幸せな関係。
聞こえはいいけれど実際には大変な事かもしれない。
関係は始まったら決して終わらない。永続以外の選択肢はない。
自分を傷つけた相手を憎んだり忘れようとしたりすれば
そのネガティブな関係がずっと続いてしまう。
人間関係でこれほど怖いことはない。
納得もせずに思いあまって壊したり捨てたりしたものは
二度と戻らないまま自分を責め続ける。
モノとの関係でこれほど怖いことはない。


自然で無理なく長く続いていく関係。
それを築きたい。
これが自分の最も切実でそしてほとんど唯一の願いである
と、そんな気がする。

幸せであるというのは
納得して受け入れていける
ということとほぼ同義である。



そんな諸々を考えていてふと思い出したのは
藤原新也さんの『何も願わない 手をあわせる』で
四国のお寺での体験を語った場面。

****
幼女はそれから手を合わせ、ひょこりとお辞儀をした。
「ああ、よくできたなあ。おりこうさん」母親はそう言って幼い娘を誉めた。
私にはその時ひらめくものがあった。
この幼女の無心にして、なお全感覚で目の前の世界を感じているであろう祈りに、一体いかなる大人の祈りが対抗しうるだろうか。そう思ったのだ。
この幼女の祈りに較べれば大人の御利益を求める祈りなど卑俗でしかない……。
私はこの時「祈り」と「願い」とをセットとして考える祈りというもののあり方を捨てることを幼女の姿から教わったのである。いやそれはかつて私自身が幼いころすでに体現していた祈りの姿なのである。
なにも願わない。そしてただ無心に手を合わせる。
****
ウェブサイトから


そうか。
祈りとは願わないものなのか。
幸せな関係を永続させるなんて煩悩の極みなのかもしれない。

でも、人は願ってしまうものだから。
この俗世で笑い泣く自分だから。
願わないまでも望むくらいはいいのだと思いたい。

ま、願うも望むも同じか…。
そんなわけで短冊には

「願わないでいられますように」

と。

| コメント(0) | トラックバック(0) |

肩書きという名の願望


「肩書きは自身の社会における立ち位置を願望的に宣言したものである」
というのが今日思いついた仮説。

自分の名刺には「紙の構造設計」と肩書きを入れている。
これは個人で活動する際の名刺。
属している会社のメンバーとして仕事をする時には
もちろん社名と部署名の入った名刺を使う。
何かしらの団体に属している場合は所属しているという事実があるけれど
個人で名刺を持つ場合に入れる肩書きはいったいどんな役割があるんだろう。
そんなことが気になる今日この頃。

絵を描いたり写真を撮ったりデザインの仕事をしたり
いろいろな仕事をしている友人がいるけれど
それぞれにイラストレーターやフォトグラファーやデザイナー
と肩書きの入った名刺を持ち歩いている。

で、よくよく考えてみると
紙があれば誰でも折り鶴が作れるし
画材があれば誰でも絵は描けるし
カメラがあれば誰だって写真がとれるし…。


じゃあなんで自分が名刺にわざわざ「紙の構造設計」と入れているのか。
考えてみると

これが意外にもせこい理由で。
紙の構造設計の専門家でありたい
つまり
紙を構造設計することで他人に評価されたい
という願望にすぎないようで。

事実ではなく願望。

それに気づいてしまったら
「なんだかなぁ」という気分…。


まあいいか。

認められたい、評価されたいと思っている自分を認めてやろうかな。
まずは。

| コメント(0) | トラックバック(0) |

6月はいつも雨

ここ2〜3日もやもやと
草食系男子について分析して文章をみたりしたのだけれど
なんだかそういうことが面倒になって全部消してしまった…。

というわけで勢いだけのブログで結構。
何を言っているのか分かってもらわなくて結構。

とどのつまり草食系って戦わない生き方なわけで。
こちとら30年も草食気質で生きてきてるんだから
今更何を草食系なんて分類される筋合いがあろう。
てなもんで。

草食だろうが自分で決めて自分に責任とるくらいできるさ。
がむしゃらになったりするさ。

ただ今回は相手が悪かった。
筋金入りの受け身屋さんだった。
弱い立ち位置を先取する、
自分で決めない、
徹底した荒天型の生存戦略。
最悪の事態でも死なないための生き方。

そんな相手にリスクの高い選択をさせようとしたけれど
結果的には足下を揺らす事ができなかった。

「痛みを自分の責任として引き受けろ」と
昨日まで受け身屋さんにしていた説教を
今は自分に投げかけることに。



いま大事なのは心を真ん中に保つ事。
悲観するでもなく楽観するでもなく。
そして長期的な視点で事物を見ること。
自分の頭ひとつ分うしろにいる老人の自分からの視点。


それにしても
なんでいつも6月なんだろう。

| コメント(0) | トラックバック(0) |

これしかできない

昨日は古くからの友人に付き添って浅草の箱屋さんに。
もちはもちや。はこははこや。

最近になって起業して靴屋を始めた友人です。
というわけで自分にもあまり経験のない靴箱の打ち合わせ。
浅草は革製品というイメージだったけれど
同時に靴の商売が盛んな土地でもあるらしい。
考えてみたら靴も革製品の一部だから。

箱屋が箱屋に行っても「勉強になるなぁ」などと思うわけで。
友人の力になれているのかはやや不安。

自分は箱屋になって8年目。
少しずつだけれど知人友人が「箱なら君かと思って」
と連絡してくれるようになってきた。
別にすごい箱を作ってあげられるわけでもなく
人脈を生かして人を繋げられるわけでもなく
それでも箱のことで声をかけてくれる。

そうやって声をかけてもらって微力ながらも答えられた時に
「このために仕事してるんだ」って思える。
誰かが必要としている。
自分がほんの少しでも力になれる。
だからやる。

儲かるからでもないし
名前が売れるからでもない。
欲してくれたから自分を差し出す。
仕事の本質的な意味ってそこにあるはず。

だからこそ「自分にはこれができる」よりも
「自分にはこれしかできない」の基準で仕事をする方が
自分を差し出したときの愉悦、というか幸せが大きい。

仕事って楽しい。
箱屋をやってきてよかった。
歳をとってよかった。
090617_1712~01.jpg

| コメント(0) | トラックバック(0) |

1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38