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目には見えない

仕事でISOに振り回されている。
紙とインクを大量に使って書類を作り
ファイルとラベルを大量に使って保管して
名前を書き込んで左から順に並べておくのが
どれほど大切な仕事なのか自分には理解できない。
その書類の殆どは見られる事もなく数年後に廃棄される。

きちんと管理すると正確に把握できる。
正確に把握すると的確にコントロールできる。
的確にコントロールできると効率が上がる。
多くの人はそう考えているらしい。

しかしそう考える人の多くが忘れているのは
「管理のコスト」という落とし穴である。

目に見えないものは管理できない。
つまり可視化するのが管理の本質である。
可視化の利便が可視化のコストを上回る場合もあるが
それはむしろ例外といって差し支えない気がする。
可視化には膨大なコストがかかる。
その最たるものは可視化にかかる時間である。

1000個作った製品の中から不良品が
ひとつでも出てしまったら残りの999個も
不良品の可能性があることになってしまう。
つまり1000個全てが不良品でないかを調べる必要がある。
「悪くない事」の証明には膨大な作業が必要になる。

私達が街中を歩けるのは
私達が善人である事が証明されているからではない。
私達が悪人である事が証明されていないからである。

悪人である事が証明できない人間がみな悪人だと、
そう考える人が多数である世の中はあまり幸せではない。
目に見えていない部分を信じてもらえない、という意味で。

製造業が品質の良さを証明するのは難しい。
ISOという規格が義務付けているのは
品質が悪くない事の証明である。
私達が悪人でない事を証明するような膨大な作業を
ISOという規格は製造業に求めている。

それでもなお製造業の多くは
ISOによる善人の証明を手に入れようと必死である。
ISOの認証を得ようと躍起になっている製造業の世界は
果たして幸せだろうか。


目に見えないものが実際にそこにある。
それを感じながらものを作りたいとそう思う日々。

目に見えないと言えば
バスケは目に見えないものだらけ。

自分の動きは自分で見えない。
重力も目に見えない。
3秒後の相手の動きも見えない。
試合の流れも目には見えない。

目に見えない何かを感じる力を涵養するがために
自分はバスケをしているような。。
そんな気がした。



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2つの嘘

地デジ難民なる言葉をラジオで耳にした。
新しい言葉なのだろうと思う。

地デジという言葉が定着するしばらく前には
ハイビジョンなる言葉が世に流布した気がする。
多分、大昔前からテレビは進化し続けているから
ずいぶんたくさんの流行りが生まれて
定着したり消えていったりしたのだろう。

テレビの進化は何も慈善事業で行われているわけではない。
およそテレビの進化を語る文句は全て商業ベースで語られている。
テレビが変わればそれを欲する人が増える。
テレビが売れれば経済の回る速度が増す。
それは自明の事である。
誰でも分かることである。
それなのになぜ今「地上デジタル放送は景気対策です」
とアナウンスする人がどこにも居ないのだろう。
不思議である。

世の中には2種類の嘘が存在する。
ひとつは嘘を付いていることにやましさを感じている嘘。
もうひとつは嘘をついていることにやましさを感じていない嘘。
言い換えると
嘘をついているという自覚があってつく嘘と
嘘をついているという自覚のない嘘である。

自覚のない嘘はタチが悪い。
自覚のない嘘をつく人は自分が何を望んでいるか
あるいは何を望んでいないかに気付いていない。
それに気付いていないせいで時として
本音とは裏腹な行動をとってしまったりする。
好きな女の子を苛めてしまう男の子と同じである。
人間は自分が本当は望んでいない事を
案外簡単にしてしまうものなのである。

地上デジタル放送を推し進める人達がついている嘘は
後者の自覚のない嘘であるように思う。
レテビが飛ぶように売れて景気に刺激を与えて欲しいという
自らの願望を無意識に抑圧しながら地デジを推進している。
そんなふうに見える。

だから自分は
地上デジタル放送の普及に熱心な人ほど
エコロジストだったりするんじゃないかと
妙な疑いを拭えないのである。

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なるほどだから腹が減る

日曜日の暇さにまかせて台所に立ってみる。
カボチャをペーストにして白玉を入れて汁粉風。
強力粉を捏ねて焼いたフォカッチャに
鶏肉の紅茶煮を挟んでチキンサンド。
パスタを茹でてキノコの和風スパゲッティ。

一日中ほとんど外にも出ないで
しかもそれだけの量を食べてもあまり満腹感がない。
いや、食べた時にはいいのだけれどすぐに胃がこなれてくる。

なんでだろう。。と考えてみて
ふと米を食べたいと感じている自分に気づく。
米はやっぱり日本人の心だからね、とは思わないのだけれど
米の方が腹持ちがいいというのは実感としてある。

そこまで考えて「あっ」とひらめく。
粉モンばっかりだから腹が減るんだ、と。

米は植物の形が残っていて
消化にもそれなりの器官と時間が必要になる。
粉は人間の消化器官に負担をかけない形に
手間をかけて植物を加工してある。
当たり前の事なのだけれど…。
誰かに言われれば「知ってるよ」と思ってしまうことなのに
自分で気づいた瞬間には大発見をした気分。

それ以来、自分が食べる物の中に原型を残しているものが
どれくらいあるかが気になり始める。
今日の夕飯は麻婆豆腐。
豆腐は加工されている。
挽肉も加工されている。
野菜は多少形が残っている。
米も原型が残っている。
でもどちらかと言えば形の残っていない食品に寄っている。

実は今日疲れ気味でさらっとした食事を欲していた。
身体が原形の残っていない食べ物を欲していたらしい。
「身体が」と言うよりは「消化器官が」かもしれない。
以前に「人間は頭より消化器官で考えているのでは」
と書いた事があったけれど外れてはいない気がする。

食べ物がまだ生き物だった頃の名残を体内に取り入れること。
地球の一部を自分の一部として引き受ける事。
これが「食」の大事な要素のひとつではないかと。

そんな気がした。

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iPhone ユーザーの少ない職種

iPhone や iPod Touch が日本にも定着してきた感がある。
持っている人を見ても「普通」になってきた。
ソフトバンクのサイトでは孫社長が
「今までiPhoneなしによく生きてたな」とまで。
まあ、広告だから話半分で聞くとしても
iPhoneに限らず「便利な道具」がなくて不自由を感じるのは
それらがなくては不自由な様に生活を変型させたからに過ぎない。
そのことは忘れない方がいい気がしたのでここにメモ。

個人的にはタッチパネル全般に「足りなさ」を感じる。
人間の感覚に全然追い付いてきてない。
それはタッチパネルそのものが記号化なのだから当然と言えば当然。
つまり人間の手指の動きを単純化して
プログラミングという形で操作感に落とし込んでいる。
人間の感覚に届くようなプログラミングは不可能である。
分かりきっている。

優秀なピアニストは鍵盤を1つ押す間にも細かく時間と動作を割っている。
そのひとつひとつを制御することができるからこそ
素人と同じ鍵盤をたたく動作であっても
ひとつの音に色や匂いや感情を豊かにのせることができる。
内田樹さんは時間を割ることをアニメーションに喩えていた。
ディズニーと日本のアニメでは1秒間のコマ数の違いが
動きの甘みや濃さの違いとなって現れているという。

プロのピアニストは指の動作を細かく割ることに慣れているせいで
iPhone や iPod Touch の記号化された操作感に
違和感を抱いてしまうのではないだろうか。
「ピアニストに iPhone 、iPod Touch ユーザーは少ない」
(ピアニストだけじゃなくて楽器の演奏者全般なのかな?)
という仮説をたててみる。

どうだろう。
今のところ確かめようがないけど。


楽器を弾くこと
字を書くこと、絵を描くこと
ドアをノックすること
バスケットボールを扱うこと…
実生活の手指の動きがディズニーだとすれば
タッチパネルで現されているのは
ノートに描いたパラパラ漫画程度にも感じる。

もちろんパラパラ漫画が悪いわけではない。
その手法でしか活きてこない表現ももちろんある。
動きのリアルさとコマ数は必ずしも比例しないから。

人の脳が記憶しているイコンにどれだけ近付くかがリアルさだとすれば、
日本のアニメはむしろ浮世絵などの
「リアルさのためにどこまで単純化できるかを追求」
してきた流れを汲んでいるように思う。



表現でも身体の操作でもコマ数の多さ少なさは
善し悪しではなく快不快でしか言い表せない。
タッチパネルの操作感に足りなさを感じるとか
ディズニーのアニメを見て濃すぎて酔うとか。

ただし、善し悪しではないとは言え
コマ数が少ないことにあまりに慣れ過ぎると
コマ数が多いこと自体に気づけなくなるし
逆に
コマ数が多いことにあまりに慣れ過ぎると
コマ数が少ないことが物足りなくなる。

大事なのはどちらも知っていることかと。

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何も起こらない事を目指す仕事

箱屋の仕事をしていていい設計ができることは嬉しい事である。
それが評価されて製品化できれば
それはまさに設計冥利に尽きるといったところ。

そんな風に自分が評価された今日は
それはそれは楽しい日なはずなのだけれど
そんな日に自分が考えているのは
システムのクラッシュを防ぐ仕事の大切さである。

不具合を起こさなくするための仕事は目立たない。
苦労してもその結果は「何も起こらなかった」という形でしか現れない。
致命的な不具合が起こらないためにする雪かきのような仕事。
褒められもしなければ製品化もない。

村上春樹の短編小説に象徴的な作品がある。
何の変哲もないサラリーマンのもとに現れた「かえるくん」が
東京を救うために一緒に大ミミズと戦ってくれと迫る理不尽なストーリー。
気を失って朝起きてみると東京は救われている。
何も起こらなかったという形で。

「役に立っている事が目に見えない」様な仕事。
そんな仕事の存在に気づいた時にようやく
「役に立っている事が目に見えない仕事」に従事することができる。

それは大人の仕事である。


自分は事務所の床に落ちているクリップを必ず拾うようにしている。
それは自分がきれい好きだからではない。
善意の人だからでも、もちろんない。

クリップを拾うという作業がシステムのクラッシュを防ぐ可能性を含んだ
「役に立っている事が目に見えない仕事」だと気づいたからである。

自分はただ
職場のシステムをクラッシュさせずに平穏に仕事をしたいのと
大人でありたいという理由でクリップを拾うにすぎない。


そして
どういうわけかクリップや輪ゴムはかなりの頻度で落ちている。

クリップを拾う事をほとんどの人は
システムのクラッシュを防ぐ仕事とは考えないからかもしれない。

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