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天才の背負う何か

先日、再々公開の『 THIS IS IT 』を観に六本木に。

知ってはいたけど あらためてマイケル・ジャクソンは天才なんだと感じる。
もちろん歌や踊りやこだわりや美意識や
そういう部分で一流なんだけれど。

自分が気になったのは「彼がどんなパフォーマンスをしたか」
ではなく「彼はなぜパフォーマンスをしたか」である。
私見だけれど、彼にとってパフォーマンスは
「しなければならなこと」だったんじゃないだろうか。

理由は分からないけれどそれを宿命と感じてしまった
その事で彼は天才になり得た気がする。
有責感とでもいうのだろうか。
自分がそれをやるべきだ、
自分にはそれができる、
自分にはそれしかできない、
そう感じた事をやるのが仕事である。

歌で世界を癒す事、誰かを救う事が
マイケル・ジャクソンにとっての仕事だったように思う。


そしてもう一つ。
彼が本来の彼の容姿になじめなかった事も
どこか彼が天才と称されることと深くつながっている気がする。
これについてはまだ言葉にならないけれど…。

自分が今の自分であってはならないような気がする、
という脅迫観念にも似た何かが彼のエネルギーの源の一つではないかと。




有責感と強迫観念…
この想像がもしあたっていたとしたら
天才はあまり幸せではないのかもしれない。


凡人で良かった。

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読書は買い物ではない

土曜出勤のために朝から電車に揺られていると
2545新書とやらの広告が目に入る。

読書は投資
読書とは読者が「お金」と「時間」を投資する行為です。だから私たちは「すぐに使える・役に立つ・面白い・読みやすい」をコンセプトに、25〜45歳向けに新書を創刊。「お金」と「時間」を投資した以上の価値を約束いたします。もちろん編集部は25〜45歳。

どこかで見たことのあるような言葉の羅列を読んでいるうちに
「これまさか本気じゃないよな…」という疑念が。

これらの言葉をマーケティングの手法として選んだのではなく
新書立ち上げのメインコンセプトに本気で掲げてているのだとしたら
ずいぶん痩せた読書観であるように思う。

「明日使える知識」を得るために読むのはすでに読書ではない。
それは投資でもない。ただの買い物である。
手に入れるものの価値を分かってお金と交換することを買い物と呼ぶ。

スーパーで売っている卵は孵ることもないし
食べられることがあらかじめ分かっている。
そう分かっているからこそ買い物の対象になり得る。
読書で得るものは想像が付かない。
「食べられるかどうかも孵るかどうかも分からない卵」
を手に入れることに似た行為である。

読書の本質とはフレームワークの拡大にある。
つまり自分がいま生きている価値観の
外にあるらしい広大な未知の領域に足を踏み入れることであり
詩的に言い換えるなら知的冒険である。

何が自分を待ち受けているか、その想像がつくものを
どれだけ増やしてもフレームワークは広がらない。

一冊を読み終えてふと気付けば
その本を読む前の自分とはすっかり別の自分になってしまっている。
いつのまにか立ち位置が次元から変わってしまっている。
そんな体験こそが読書の醍醐味である。

そしてそれはまさに「学ぶ」ことの本質でもある。

受験のために化学を勉強している友達が
「化学式は言語だ」と言ったのが印象に残っている。
化学式を学んだ事で化学反応を
記号の羅列ではなく現象としてとらえる事ができると。

そんなふうに感じられるのは、自分の知らなかった世界が
学びによって立ち現れたからに他ならない。
とても素敵な学び方である。


学びは買い物ではない。

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映像のきれいな映画をふたつ

最近は見る映画の数は減ったけれど
いい作品にあたる確率が高くなったような気がする。
最近見た映画で映像の美しさが魅力の二作品をここにメモ。



『パンドラの匣』

太宰治の小説を冨永昌敬が映画化。
影が、特に夜や明け方の影の色がきれい。
そして映画初出演の川上未映子もきれい…。
というか川上未映子の表情に惹かれて見に行ったといっても過言ではない。
しかしすべての作品がそうであるように
映画が原作を超える事はできなかったように思う。





『戦場でワルツを』

パレスチナ難民キャンプで起きた大量虐殺事件をモチーフに
監督自身の体験を描いたノンフィクション長編アニメ。
美しい映像で描く凄惨な事件。
終盤の展開には言葉を失ってしまった。
デートにはお勧めしない。
でも知らないではいられない。
見た方がいい。







全然違う作品なのに映像の綺麗さの質が似ている気がする。
映像がきれいだと感じるのは
光と影のバランスが自分の好みだからではないかと
そんなことに気づかされた二作品。

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かみの工作カフェ 09 のお知らせ



僕エドウの関わっているプロジェクト
「かみの工作所」が国立で展示をしてます。
お近くにお越しの際はのぞいてみて下さい。

12/9のオープニングパーティにはエドウもいますので
そのタイミングでぜひ。



************************
「かみの工作カフェ・国立店」
2009年11月18日(水)~12月21日(月) 火曜定休
12:00~17:00
かみの工作パーティー 12月9日(水)19:00~21:00
会場:国立本店(JR中央線・国立駅3分)
186-0004 東京都国立市中1-7-62
tel:042-575-9428
http://honten.chub.jp/

・「かみの工作教室」12/12(土)14時~国立本店

主催:かみの工作所
代表:山田明良
企画:萩原 修
デザイン:三星安澄
************************

国立と言えば
南口の雑貨店「GEORGE'S 国立店」にも
かみの工作所の製品が売られています。
素敵なお店なので立ち寄るだけでもおすすめです。

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我がままを言わずに済む事の意味

最近、誰かに我がままを言ったり
本気で腹を立てたり喧嘩したり
何かを強く求めたり
何かを強く拒んだり
そういうことが殆どない。

客観的にみれば穏やかで静かな日々である。

以前、心穏やかに過ごせなかった頃に
「受け入れる」ことをひとつの重要な姿勢として
自分の生き方に取り入れようとした。

怒ることをやめ
責めることをやめ
焦ることをやめ
逃げることをやめ

頭ひとつ分、後ろから自分を眺めるような
60歳の自分が昔を振り返るような
自分であって自分でない視点を手に入れようと
数年来、模索してきた。

ふと気付いてみたら
「受け入れる」ことが少しずつできているかに思えた。

けれども

色んなことを受け入れて生きることができたなら
世界が違って見えるかもしれないと。
かつて思った理想の場所に立ってみて感じたのは
心の凪でもなければ
成長したことへの充足感でもなかった。

簡単な話がまったく成長していなかったわけで。

子供の頃、
大人になったら全ての悩みは解決し
明解な答をもって楽しく生きられるのだと
漠然とそんな想像をしていたように思う。

答を見つけ楽しく生きられるうちは
大人ではないのだと気付いた時に
人はようやく大人への道を歩み始める。

「受け入れ」てもちっとも心穏やかになんかならない。
ようやくそのことに気付いたのである。
今まで自分は「受け入れている」つもりで
ネガティブな感情をいつの間にか
「受け入れなくていいもの」にカテゴライズして
見えない所に隠していたのかもしれない。


それに気付かせてくれたのは新婚の友人。

友人がこぼした旦那の愚痴を笑って聞きながら
自分には愚痴をこぼしたくなるような相手も
我がままを言う相手も、腹をたてる相手も
その本音をぶつけて喧嘩する相手もいないのだと、
誰かに強く何かを求めたり
逆に何かを求められたりもしていないのだと、
そもそもそう思うような距離に人がいないのだと、
受け入れるつもりが必要以上に
人との距離をおいてきてしまったのだと

そう気付いたらとても寂しく感じたのである。


『ノルウェイの森』のなかで愛に付いて語られる箇所がある。
とにかく理不尽な我がままを聞いてもらうことが
私にとっての重要な愛の形なのだと語る女の子に
「そんなのは愛とは何の関係もないように思えるけどな」
そう主人公が言うと、女の子は答える。
「関係があるのよ。あなたが知らないだけで」と。





うむ。
僕は何も知らなかったみたいだ。

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