ブログ

メイン | 一覧

食べ方の肌理

先日、会社で弁当を食べながらふと
食べ物のもともとの大きさについて思う。

小骨のある魚と一口大のサイコロステーキでは
口に入る大きさは変わらないのに
そこにたどり着くまでに必要な身体操作がかなり違ってくる。
味わい方の肌理の細かさが違うとでも言うのか。

牛は食卓に並ぶまでに必要な過程の多くを
見えないところで済ませて自分の前にやってくる。
魚は料理してあってもなお自分で工夫しないと食べづらい。

牛や豚などの大きな生き物は加工が困難なせいで
専門家にまかされてブラックボックス化してしまっている。

食材のもとの大きさゆえに見えなくなっている過程が
料理の意味や価値に大きく影響しているようで。
自ら過程を経て口に運ぶ料理はより身体的であり
過程を人に任せている料理はより記号的である。


そうか、
自分が食べるだけでなく作ることにこだわるのは
この「食べ方の肌理」を細かくしたいと思っているからかもしれない。
「食べ方の肌理」が「おいしさ」にダイレクトに影響していると
どこかで感じているのだと思う。

| コメント(0) | トラックバック(0) |

第二回 高尾山頂 味噌汁会

「本日は早朝よりお集まりいただきありがとうございます。
私のわがままから始まったこの企画が
無事に第十回の開催をむかえるに至ったのも
ひとえに参加者のご協力とスタッフの尽力のたまものであると
ここに高尾山頂味噌汁会の実行委員長より
深く御礼申し上げる次第であります。

では皆様、お椀は行き渡りましたでしょうか?

早朝登山の後、山頂で味噌汁を食す、という
単純ながらも味わい深いコンセプトを掲げるこの活動が
末永く続くことを祈念いたしまして…いただきます!」



いつかそんな挨拶をすることを妄想しながら
ひとまず今日は第二回の活動をしてきました。
味噌汁がややぬるかったという前回の反省をふまえて
今回はコンロとコッフェをもっての山行。
あつあつ味噌汁とおにぎりを食して無事下山。

これからもできるだけ活動していくつもりなので
興味のある方はぜひお声かけ下さいな。

| コメント(0) | トラックバック(0) |

得するばかりが得じゃない


ラジオを聞いていたら
家電量販店のさくらや全店が閉店するそうで。

大きなお店が閉店するとあって話題になっている様子。
そして「皆さん、気になるのはポイントですよね」と。
何でも2月いっぱいに使いきらないと無効になってしまうとか。

それを聞いて自分が思ったのは
「たまってるポイントで何を買おう」ということではもちろんない。
自分はさくらやのポイントを持っていない。
さくらやに限らずどこの店のポイントも持っていない。

いつの頃からかポイントカードを作らなくなった。
「ポイントを使って易く買うのが得だ」と思わなくなったからかもしれない。
それは何よりポイントカードを持ち歩くのが面倒だから。
パンパンに膨らんだ財布を持ち歩く面倒と
正価で物を買うことを天秤にかけて後者を選んだ。


ところでポイントって何だろう…。

ポイントを持っていれば一見さんより得する仕組み。
ポイントはつまりお得意様をつくるためのサービスである。

「奥さん、昨日の残りだけどイチゴ入れといたから」みたいな
青果店のおっちゃんのおまけ的なサービスを
システムにしたのがポイントの制度。

ポイントカードってお得意様証明書みたいなもので。
それに違和感を感じてしまう。
証明しなきゃおまけしてもらえないお得意様っていったい…。


んー、
まだ感覚的にしか言えないのだけれど
おまけってそんな定量的なものではない気がする。
おまけでどれだけ得をするかを目に見えるようにしてしまったら
もうそれはおまけではなくてただの買い物になってしまう。
どれだけ得するか分からない、
自ら選ぶことのできない偶発的なサービス、
それがポイント制度にはないおまけの醍醐味じゃないだろうか。

イチゴをもらう時に
「傷みかけたら砂糖で煮るとジャムできるから」って
おっちゃんに教わって作ってみたら食パンを食べたくなって
オープンしたばっかりの近所のパン屋に行ったら
小学生時代の同級生にばったり会って
同窓会の話になっちゃうような
どこからが得でどこからが損なのかわからない
そんな買い物をしたいのですよ、自分は。

| コメント(0) | トラックバック(0) |

「よいお年を」考

友人にメールで「よいお年を」と送ったら
「よいお年を」っていい言葉だよねと返信が。

あまり意識していなかったけど確かに。
「よいお年をお迎えください」という言葉は
願うでもなく、望むでもなく、むしろ祈るに近い気がする。

あなたがよい年を迎えられることを祈っています
という祝福の言葉であり
あなたの存在が私にとって大切である
と相手の存在を肯定する言葉でもある。


30日の夜に大掃除も終えて一人ぼんやりしていると
滅多にならないドアのベルが鳴った。
こんな時間にいったい誰だろうと警戒しながらドアを開けると
自分と同年代くらいの女性が二人。

聖書に何が書かれているかを紹介する冊子を配っている、と。
何もこんな時期のこんな時間に、と思いながら
聖書には興味があるけれど特定の信仰を持つことには興味がない
とそう伝えて冊子を受け取り、お礼を言ってドアを閉める直前に
友人からもらったメールのこともあってかふと
「よいお年を」という言葉が口をついてでた。

するとそれまで
「無下に断られてドアを閉められるかもしれない」といった類いの
緊張感で強張っていた二人の顔が急に綻んで
「お体に気をつけて過ごして下さい」と祝福の言葉を返してくれた。


ドアを閉めてからもしばらく優しい気持ちに包まれて
そのメールをくれた友人にも感謝した
そんな静かな晦日の夜であった。


みなさん
よいお年を

| コメント(0) | トラックバック(0) |

交換によってもたらされるもの 2



友人の結婚式で指輪の交換をみて
交換についてこのブログに書いたのが1ヶ月ほど前。
そして恒例の「交換」の時期が迫っているこの時期に
交換ということについて明快な言葉を見つけたのでメモを。


『人はどうして労働するのか』と題したブログ内で内田樹さんが
「働く」ことの本質は「贈与すること」にあり、
それが労働であるかどうかは事後になって、それを
「贈り物」として受け取る他者の出現を待ってしか判明しない
と書いている。

そしてさらに
****************
人間が経済活動を行い始めたのは「商品交換」という歯車を一枚噛ませた方が「人間は成熟することを促される」ことにあるとき太古の人々がきづいたからである。

幼児でも参加できるなら、その経済活動は人類学的な意味ではもう「経済活動」ではない。労働の目的は「人間の人間性を基礎づけること」である。端的に言えば「大人になること」である。より具体的に言えば「適切なしかたで贈与が行える人間になること」である。
****************


なるほど、大人ってのはちゃんと交換ができる人のことか。

というわけで、大人になるためにこの年の瀬に
必死に年賀状を作っている自分なのである。
ああ、せめて年賀状をくれた人にはちゃんと返さないとなぁ。

自分が子供の頃、教員だった両親はその職業柄
何百通もの年賀状を束で出し、また受け取っていて
両親が正月早々から居間で向かい合って黙々と
年賀状の返信を書く姿が恒例だった。

今おもえば結構な仕事だったと思う。
ずいぶん大人だったんだなぁと、あらためて関心してしまう。

年賀状をちゃんと「交換」できる大人にならねば。

| コメント(0) | トラックバック(0) |

1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 32 | 33 | 34 | 35 | 36 | 37 | 38