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食べることは生きること

人は生きるために食べるのではなく
食べるために生きるのである、と
以前に書いたことがある。

その時には
「食べること大好き宣言」以上ではなかったこの言葉に
少し違う解釈を思い付いたのでここにメモを。

きっかけは福岡伸一さんの言葉を再読したこと。
***
「生きている」ということは、体の中で合成と分解が絶え間なくグルグル回っているということなんです。その流れこそが「生きている」ということ。その流れを止めないために私たちは食べ物を食べ続けなければいけない。(略)入っていって抜け出ていくという流れしかないわけです。
***

動物は食べることで常に取り入れ続け
代謝することで常に排出し続ける。
人間を構成する分子はおよそ半年で全て入れ替わってしまうという。
分子が入れ替わってしまって物理的には
全くの別物になってしまうのに生命は存在していく。
構成要素は入れ替わって行くにも関わらず
そこに維持されている分子の偏り、分子の淀みのシステム
それが生命なのだという生命観。
そのダイナミズムにあらためて興奮をおぼえる。

外から分子を取り入れなければ生命を維持できない。
というか取り入れ続け、出し続ける「分子の淀みシステム」
そのものが生命であるらしい。

そしてここからは自分の想像だけれど
おそらく「分子の淀みシステム」は
「分子の淀みシステム」を維持するがために
システムを維持し続けるのではないだろうか。
分かりやすく言いえば
生命が存在するたったひとつの目的は生命を維持し続けること
なのではないだろうか。

これは直感だけれどあっている気がする。
ハッキリとは言えないけれど
存在を維持する意外のベクトルは本来の生命にはない。

生命は生きるために生きている。
人は生きるために生きている。

そして人間が食べ続ける事でしか生命を維持できない以上
「人は食べるために生きる」ということもまた
言葉のあやだけではないのである。

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返歌

自分が読まない本のひとつがミステリー。
なぜだかは分からないけどあまり惹かれない。
人から借りても最後まで読めなかったり。

そんな自分が今
気になっているのが東野圭吾『新参者』。
阿部寛の主演でドラマ化されて第一話が放映されたばかり。

自分は第一話を見てないのだけれど
というか家にテレビないのだけれど
何か機会があれば見てみようかと。

人は分からないもので、興味がなかったものにも
些細なきっかけで興味をもったりする。
そんな好例かもしれない。


「しろくろもの」


こんなふうに
手にとってくれる人(プロフィール見たら同い年だわ)
のために自分は作っているに違いない。
感謝。

そしてメールで知らせてくれたうえに
宣伝までしてくれる律儀な友人に感謝。
「エドゥー発見!」


次を作らなきゃ。

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作品とは何か

以前に「作品」という言葉について書いたことがあった。
それは友人の「自らの作ったものを作品と呼ぶことに抵抗がある」
という言葉がきっかけだった。

自分作ったものを作品と呼ぶのか、呼ばないのか考えて
結論が出ないままずいぶん長い間放置していたけれど
内田樹さんの言葉の中にがヒントを見つけたので。

***
「自分がその言葉を発しなければ、他に言ってくれる人がいない言葉」
だけが真に発信するに値する言葉である
***
とのこと。


自分にとって大切なのは
他人や世間に作品と呼ばれるかどうかではなく
自分がそれを作品と呼べるかどうかなのである。
それが作品であるかどうかが意味を持つのは
自分にとってだけである。

自分が作らなければ存在し得なかったものであり
作る過程、あるいは出来上がったものを通じて
事後的に自分が自分であることを確認するようなもの
それが作品なのだろうと思う。

自分が作らなくても誰かが作って済んでしまうものは作品とは呼ばない。
内田樹さんの言葉をそのまま置き換えるなら
「自分がそれを作らなければ、他に作ってくれる人がいないもの」
だけが真に作るに値するものである。
と。

ではマスプロダクトな作品は存在しえないのか。
この問いを突き詰めて行くと
自分がデザインしたプロダクト製品を自分の作品と呼べるのか
という疑問に突き当たらざるをえない。

結論を言うと自分はマスプロダクトでも
その作り方によっては作品と呼べる気がしている。
しかしデザインを手掛けたもの全てが作品になるのではない。

プロダクトデザインでも完成に至る方法やコストや
技術的な問題の解決などのバランスを取りながら
様々な決定をして行かなければならない。
その決定自体がモノを作るという事である。
何よりもそれを作りはじめる動悸がないものは
作りはじめることが出来ない。

作りはじめる動悸から作る過程、作る方法、作ったものまで
一通りの思考や作業やに責任を持てるかどうか。
それがおそらく作品かどうか
正確に言うなら、それを自分が作品と感じるかどうか
の決め手になるのだろうと思う。

自らの作ったものを作品と呼べなかった友人はおそらく
動悸や過程や方法や出来上がったもののどれかに
あるいはどれにも責任を持つことが出来なかったのだと思う。
単純な言い方をすれば自信や確信が持てなかったのだろう。

その友人にはしばらく会っていないけれど
モノを作る学校か教室だかを3月いっぱいで
卒業することになっていたと記憶している。

その友人は「作品」を作っているだろうか。

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好奇心の天の邪鬼さ

先日、飲みの席で漫画『ワンピース』の話になる。

どういうわけか『ワンピース』好きの人達はたいてい
それを世の中に広めるに熱心である。
作品の良さを主張するうちに
だんだんと声が大きくなり白熱していく。
キャラクターがどんなに魅力的で
自分がどんなに感動したかを叫び
相手とそれを共有できない事を嘆き
読まない事の非を責めるような口調になる。

しかしまだ読んでいなくて勧められる立場の自分からすると
どうもその「お勧め」が素直に受け取れない。
「おいしいから食べなよ」と無理矢理に
食べ物を口に押し込まれる様な
押し付けがましさを感じてしまう。
そうされると身をよじって避けながら
「嫌いじゃないけど別に今はいらない」と応える他ない。

自分が『ワンピース』を読んでいないのは
ただ単純にきっかけがないからであって
作品の善し悪しには関係がない。
作品の良さを主張されても直接のきっかけにはならない。

恋に落ちるのが偶然の出合いでしかないように
漫画に「ハマる」のも偶然のきっかけからしかない。

むしろ作品の良さを強く勧められれば勧められるほど
『ワンピース』との距離が遠ざかっていく気さえする。
勧められれば勧められるほど出会うきっかけが遠ざかる。
「好きでもないのに意識し過ぎたせいで
声をかけづらくなった異性」みたいに。

漫画好きな自分としては
これだけ面白そうで、これだけ支持されている
いわば「名作」を読みたくないわけがない。
でも「ハマる」には出合いのタイミングが大事で。
良い漫画にどっぷりハマりたい自分は
だからあまり『ワンピース』を強く勧めないで欲しいと思ってしまう。
「この面白さは君には分からないだろうな」
とそんな具合にため息を付いて放っておかれたいと思ってしまう。

人の好奇心はアクセスが困難な喜びにこそ
辿り着こうと必死になるものなのだから。

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借金時代

借り入れ返済のご相談は○○法律事務所
といったCMや広告やチラシが急激に増えた。
この数カ月で気持ち悪いくらい目につくようになった。

自分の感じる気持ち悪さの根はどこにあるんだろう。


不景気で借金苦や自己破産が急増したから
借金返済の広告が増えたと人は解釈したがる。
しかしどうもそれは着眼がずれている気がする。

問題は借金返済の広告が増えている原因ではない。
借金返済の広告が増えても気持ち悪さを
感じないでいられる心の健康状態が
マジョリティーになっている現状である。

自分が借金返済の広告に感じる気持ち悪さは
消費者金融のCMが一世を風靡した時の違和感に良く似ている。
ある時代には金を使うために借金せよとアナウンスし
別の時代には払い過ぎた金を奪還せよとアナウンスする。

メディアのアナウンスは時代によって矛盾しているかのようで
「金がないと不幸だ」という前提に
同意している点においては共通している。

金を借りろ→金を取り返せ という図式には
金の全能性に疑いを持たせないための
広告戦略があるような気がしてならない。
「我々には金が足りていない」そう思わせる戦略。

金によって不幸にならない方法がひとつだけある。
それは金によって幸福になろうと願わない事である。
そんな当たり前の事を忘れさせるがために
メディアは間断なく金の不足による不幸を
アナウンスし続けるのかもしれない。

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