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暑いくらいがちょうどいい

我が家にテレビがないことはここにも何度か書いた。
加えて我が家にはエアコンもない。
(そのせいか家賃が安い。)

この気温でエアコンがないのは結構暑い。
安物の扇風機がなまあったかい部屋の空気をかき回している。

お金に困っているわけでもないのに何でエアコン買わないんだろう。
ふと自分の行動が不思議になる。
結論はない。
自分でもよくわからない。

ひとつだけ言えるのは
暑い方が身体の声がよく聞こえる、ということ。
身体が緩んでよけいな力が抜けるせいかな。

夏中にバスケのスランプを抜け出せるといいのだけれど。


この暑さでエアコンがなくても体調を崩さないでいられるのは
南の島の血を受け継いでいるからかもしれない。
感謝。

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サッカーを見ていないからって

今朝、仕事に行こうとしたら
いつも乗っている各駅停車が止まっていた。

ある人は焦りながら
ある人は苛立ちながら
各駅停車をあきらめて超満員の快速に身体をねじ込むべく走っていった。

思わず同じことをしそうになる自分を抑えて
『縄文聖地巡礼』を読みながら古代に思いを馳せる。
どれだけ遠い視点を持っていられるか
それが大事な気がする。

たかだか5分や10分早く職場に着くがために
身体感度を限りなくゼロに近づけることが自分のすべきことなのか。

そうではない、と今の自分は断言できる。
ようやく少しずつまともな感覚が戻ってきている。

何が大事なのか常に問い続けなければ。
今の世の中の常識を、自分の常識を
疑ってかからなければならない。

そんなわけで
家にテレビのない自分は日本代表の試合を見るでもなく
明日の朝ご飯のサンドイッチのために
鶏肉の紅茶煮をスライスしてレタスをちぎって
生活とはこうあるべきだと充実感を得たのである。

下らない常識を捨ててしまえばいいさ!

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これがないと仕事にならない

仕事というものをしてきて約8年。
こんなにしんどいと感じたことはない。

まともな食事もできず
満足に睡眠も取れず
何のために仕事をするのか分からず消耗していく。
それだけ身を削ってもやり方が悪いせいだと評される。

そして今日
なぜそんなに仕事をつらいと感じるのか
それに思い至った。

労働に不可欠なのは対価としての金や名声ではなく
端的に自分の労働を必要としてくれる受け取り手である。
受け取り手のいない労働は労働と呼べない。
どんなに働いてもそれを受け取る相手がいなければ
そもそもそれは労働とは認識されない。

自分が欲しているのは
「あなたがいなければやっていけない」
「あなたの仕事が私たちには必要だという」
単純な意思表示なのだと気づいた。

自分はそれを敬意と呼びたい。
敬意をひょうされることなしに人は労働できないのだと思う。
少なくとも自分はできない。



必要だと言ってくれる人のために
労働というかたちで身を捧げることはつまり
「必要だと言ってくれる人が自分には必要だ」という意思表示であり
敬意に対する返歌なのかもしれない。

人間は自分を必要としてくれる人に
喜んで骨をしゃぶられることのできる不思議な生き物なのである。

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意味の位相がずれる瞬間

川上未映子さんの対談本がおもしろい。
生きて行く上での違和感を執拗に追いかけている印象。
そのなかの言葉にピンと来たのでメモを。

同じ文字を繰り返し書いていると
意味を離れて奇妙な形の図形に見える瞬間があって
それがたまらなく快感なのだとか。

それって分かる!と思わずうなづいてしまう。
この感じ、誰しも経験したことがあるんじゃないだろうか。
快感まではいかなくとも文字が意味を失ってしまう瞬間って
何か異次元に迷い込んだような不思議な気持ちになる。


そしてこの文章に自分が触発されたのは
平面上にかかれた図面とそれが立体になった時のギャップについて
何かしら感じる不思議な気持ちが文字のそれと似ているからだろうか。

紙の構造体を作るために図面をひく、というのが常識的な解釈であり
実際に自分も仕事では箱を作るために図面をひいている。
そこでは箱と図面の関係は主従関係に近い。
図面をひく行為は三次元の用途や価値を
二次元に定着させるための抽象化であるとも言える。

ところがあまりに日常的に三次元と二次元を行ったり来たりしていると
いつの間にか図面が構造という意味を失ってしまう瞬間がある。
立体を表現しているはずの図面がただの絵に見えてくる。
その時々で人の顔や動物などの具体性を持つ場合もあれば
迷路や幾何学模様など、記号的に見える場合もある。

そしてそがれ繰り返されるうちに自分の中で
構造と図面の関係が「イコール」でなくなってきてしまったようで。
単に三次元を表現するための二次元ではなく
何かしらの見えない関係性がそこに介在しているように感じている自分を
最近になって発見したのである。

楽譜をかく仕事をしていた友人がかつて
「美しい楽曲は楽譜になっても美しさを持っている」と言ったことを思い出す。
あるい構造と図面もそれと同じ関係を持っているのかもしれない。
しかしそれは単に音が聞こえない人でもきれいな楽譜がかければ作曲ができる
というのとは違う。
それでは主従を逆転したに過ぎない。

主従とは違う不思議さを持ち合わせた関係性。
イコールでありながらただのイコールではないような。
そんな何かしらを自分は確かに感じる。

あるいはそれは宇宙の真理かもしれない。
あるいは自分が狂気を発症したのかもしれない。

結果はどうであれ
そこを追求していくことが自分にとって喫緊の課題であり
自分が外に向けて発信する手がかりになると確信している。
それをぜひ見て欲しいと思う。
なんとかかたちにせねば。



そういえば
川上未映子さん写ったポスターに惹かれて見た
太宰治原作の映画『パンドラの箱』も
自分に大切なものをもたらしたんだっけ。

そういう縁なのかもしれない。

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何もしないをしてきた

最近、電車に乗るのがしんどく思えてきた。
見知らぬ人と密着することや肩がぶつかること。
自分の足の真上に体重が乗らないで立つこと。
ゲーム機のボタンを押すカタカタカタカタカタカタって音。
これは感度が上がっている証拠かな。

とそんなことを思っていたら
「危機回避するためのセンサー感度を上げるには
低刺激な環境で過ごすしかない」という内田樹さんの文章に出会った。

刺激が過多になると人間はセンサーの感度を落とさざるをえない。
感度を上げると満員電車は不快以外の何ものでもない。
満員電車に乗っていて不快を感じない場合には
危機センサーの感度が極度に落ちていると考えていい。

満員電車が嫌になったのは
自分にモノを作るべき時期が近づいているからかもしれない。
感度を上げなければできないことだから。


そしてついでに
低刺激、ということについての文章を読んでふと
学生時代のことを思い出した。

飲んでいた時に友人のしてくれた
「高校時代に大学生と喧嘩をした」話や
「中学時代から酒をのんでいた」話や
「ロックバンドを組んでトンガっていた」話や
「授業を抜け出して遊びに行っていた」話を聞いて
自分はそういった経験をしてきた人に対してコンプレックスがあるのだと
ふと気づいた瞬間があった。
美術大学にいながら自分のやりたいことも曖昧で
作ることにも夢中になれずにいたせいで
「溢れ出す若さとエネルギー」的なものに憧れがあったのだと思う。

自分はどちらかというと刺激の少ない育ち方をしてきたようで
喧嘩らしい喧嘩もほとんどしてこなかったし
酒は今もほとんど飲まないし
音楽にもこだわりがないし
学校の授業はほとんど皆勤に近かった。

しかし
「いろんな経験をしてきた刺激的な育ち方」へのコンプレックスに対して
自分の見つけた向き合い方は
「自分は何もしないをしてきた」という屁理屈だった。
「何にもしてないをしている」とはご存知クマのプーさんの台詞。

今考えればそれでよかったような気がしている。
そのコンプレックスに向き合えずに
飲めない酒を飲んでみたり
退廃的な作品を作ってみたり
そんな可能性もあるいはあったかもしれない。

低刺激で育つことの良い点は
ひとつには危機センサーの感度があがること。

そしてもうひとつには知的持久力がつくこと。
これについては話すと長くなるので次の機会に。



電車通勤もそろそろ限界かな。
こっからさらに感度を上げていくつもりなので。


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