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使わぬ金に価値はなし

あまりに忙しくてブログどころではなかったけれど
忙しく動き回っているとやはりいろいろ考えるもので
備忘のためにメモを残そうかと。



ここのところ大きくお金を使う予定があって
預金の残高と使うべき金額を眺めている。

貯金しておいて良かったと思ったり
もう少し給料上がらないかなぁと思ったり。
まあそれでも使うために貯めたんだし
などと考えていて、ふと気づいたのは

「使わない金に価値はない」ということ。
そんなの当たり前なんだけど…。

財布に1万円はいっていたら普通は
「財布に1万円の価値」が入っていると考える。
だけどそれは勘違いで、厳密に言うと
1万円分の価値に変化する可能性を持った紙でしかない。
1万円と値札の書かれた何かと交換した瞬間に
初めてその紙切れに価値が生まれる。

家の金庫に1億円を大事にとっておいても
日本にクーデターが起こって円が使えなくなったりしたら
万札1万枚分の紙クズになってしまう。

というか紙幣ってもともとは紙クズなんだな。

その紙くずと某かを交換できると
みんなが信じ込んでいるからこそ価値がある。
…ような気がしているわけで。

価値があると皆が信じているから
その信用がひとまず安定しているから
財布の中の紙くずは価値に変化する可能性を持つ。

というわけで
数年間かけて貯めてきた可能性の塊という名の紙クズを
いざ価値に変換していこうと決めた自分がいる。


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2年ぶり と 初めてと

ここ2年ほどためていた作品を
一気にアップしました。

いつもブログだけの方もぜひ覗いてみて下さいな。

突貫工事だったせいもあって
やや画像が荒い箇所もありますが…
大目にみて頂ければ、と。


そして…

初の個展開催します!
まだ詳細お知らせの準備ができてませんが
11/3〜8 高円寺ギャラリーにて。

今から心の準備だけしておいてねー

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だから言われる非常識


最近「常識」についてよく考える。
果たして自分の感じている「常識」はどれだけ常識なのか。
いったい「常識」とは何なのか。
よくわからない事だらけ。

周りの人の常識の範疇に自分をとどめておけるか、
その点において自分の「常識」は量られているようだ。

思うに人間が共同体を形成して暮らすために
常識は重要な素質なのだけれど、しかしそれは
「自然の原理」を知っていることとは違う。

私たちは常識があれば生きていける。
…ように感じている。
周りの人から指をさされない行動をしていれば
充分に生きていけると考えている。
どうしても自然の原理や摂理を求める
好奇心や探究心を忘れてしまう。
物事の根本に立ち返って見る視点を手放してしまう。


私たちは目上の人やビジネスパートナーに
会いに行くのにスーツを着る。
それは「私はあなたに対して敬意を表する」
というメッセージの表現だと思う。
それは常識である。

しかしそれが「常識」であるのと同時に
敬意を表する服装や態度にはあらゆる方法があって
スーツを着るのはある特定の時代、特定の地域、特定の集団
にだけ適用できる複雑に社会化された表現である
というのが「原理」だろうと思う。

原理から言えばスーツを着るのは
縄文時代の人間が隣の部族に会うために身体にペイントして
装身具をジャラジャラ身に付けるのと同じなのである。
(そんな作法が本当にあったのかは知らないけれど…)

お互いが生き延びて行くために
他人に対しては敬意を持って接するという原理があって、
時代や場所や集団によって方法が違うだけだと
最近は特に強く感じる。

人間は「常識」と「自然の原理」とを
同時に生きているのだろうと思う。

自分は常識的な人間、常識的な大人になりたいと思う。
自分の生きている時代、場所、集団を尊重して
できれば指差されずにいたいと思う。
しかし
そう思う一方で何万年もを遡っても変わる事のない
人間の核になる部分を原理と呼んで
探し求めて大事にしていたいとも思う。

だから自分がスーツを着て誰かに会いにいった時に
相手が身体にペイントして待っていたとしても
その敬意が本気なのであれば(多少驚くとは思うけど)
その行動を決して非難しないでいたい。

自分はできるだけ常識的な振舞いをしながら
人の行動の非常識を避難せずに受け止める。
今この場に適切な常識が
相手の選んだ方法なのかそれとも
自分の選んだ方法なのかを決めるには
私たちはあまりに根拠を持たなすぎるのだから。

そんな考え方こそが常識的だと思うけれど
そう考える人はあまり多くないようで
だから自分はいつも変わり者に見られているらしい。

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不調なんかじゃない


どうも最近バスケをしていても調子が出ない。
シュートをうってもまるで入らないしボールが手につかないし
まるで自分の身体じゃないみたいに感じる。

絶不調だなぁと嘆いていたのけれど
今日バスケをしていて相変わらずの不調っぷりでふと気づく。

ああ、これは不調なんじゃないな、と。
端的に体力と筋力が落ちているんだな、と。

不調というのは本来できるはずの動きが
歯車がうまく噛み合わないみたいに
ちょっとしたズレでできなくなる状態であって。

今の自分は明らかに
頭でイメージした動きを身体ができていない状態だと
そんな風に感じた。

頭でできているイメージを身体がトレースできないのだから
自分の身体じゃないみたいに感じて当たり前だな。
これは絶不調よりもまだひどい。


解決方法は単純で
身体を頭のイメージに近づける、か
頭のイメージを身体に近づける。
望ましいのはこの両方を同時にすること。

身体の方は時間をかけて見直すことができる。
心配なのは頭のイメージの方。
体力も筋力もあった頃にバスケを覚えたせいで
頭はそのイメージしか持っていない。

これから自分の身体はどんどん衰える。
体力と筋力に頼らずにできる質のいいプレーを
頭でイメージできるようにならないと。
身体との齟齬は解消できない。


試すしかないな。
とにかく動きを試して探っていく。
体力が後退していくのを食い止めながら
体力が衰えてもできる動きを模索する。

大変ではあるけれど
これはこれで歳をとった楽しみかもしれない。


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きづいてにやりと

うだるような暑さの中
会社の非常階段で外を眺めていたら
道路に見慣れない模様が。

何かと思って眺めていたらそれが太陽の光だと気づく。
高速道路の陰の薄暗い道路に
ビルの窓を介して落ちる光の幾何学模様。

それに気づいた瞬間に小さく「あ」と声を出して
ついでにニヤリとしてしまった。

こういう小さな気付きを
最近は忘れかけていた気がする。

「どんなに平凡な一日にも小さな奇跡は必ずおきる」と
そんな言葉を今は信じようと思える。


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