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池袋より愛をこめて


現実的に考えるべきことがたくさんあったのと
考えてもどこにもたどり着かないことが多かったのとで
しばらくブログの書き込みをお休みしていました。

久しぶりに再開。
(数えたらなんと100日ぶり)

6/18(土)に 自由学園 明日館で結婚式。
来てくれた方々にたくさんのありがとうを。

ほんとにたくさんのおめでとうを言われて
ほんとにたくさんのありがとうを返した一日。

今まで「感謝する」ってどんなことなのか
あまり深く考えたことがなかったけど
たくさんのありがとうを言った中で色々と感じる。

自分をとりまく環境や人に感謝することは
今の自分を肯定することなんだと思うし
逆に周りの人たちに感謝できるのは
今の自分を肯定できているからだとも思う。

結婚式でみんなに言った「ありがとう」は考えてみると
こんな自分にしてくれてありがとう
こんな自分になるまでの過程に付き合ってくれてありがとう
これから先の自分を作るであろう
今この瞬間に立ち会ってくれてありがとう
そんな意味なんだと思う。

そして話は少しややこしくなるけれど
自分が「ありがとう」を言えるのは、
つまり自分がいまの自分を肯定できているのは、
肯定できるように祝福を与えて育ててくれた
周りの人たちがいるからなんだとも思う。

自分がハレの日に胸を張ってありがとうを
言える様に育ててくれた当のゲストの方から
おめでとうを言われて
ありがとうを返すことでさらに
ありがとうが言える自分にしてくれたことに感謝する。

なんだか…
ニワトリが先なのかヒヨコが先なのか…みたいな。



プロフィールに書いた特技は「屁理屈」ですが…
今回ばかりは理屈じゃなく、
これまでに自分を祝福してきてくれた全ての人に感謝。

ありがとう。

愛してんよ。

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情報の早さ

ここ数日、地震や停電や原発の情報が錯綜している。
混乱し戸惑っている、と多くの人が言う。
確かにその通りで、欲しい情報が入ってこない感は否めない。

だけれど欲しがるあまりに
手当り次第に情報を懐に詰め込んでいる姿も多く見受けられる。
常識的に考えたら分かる事が分からなくなるのが
まさに非常時なのかもしれない。

自分も例外ではない。
考えてみたらカップ麺を買わなくても
3日間なら生きられるくらいの食材は家にあったのに。



今日になってメールが送られてきた。
報道されていないけれど放射能汚染は進んでいると、いう内容で
その筋の人から伝え聞いた、とか
近しい人にだけ伝えておく、とか
どう考えてみてその言葉遣いは「風評」の類いだと感じる。

送った本人は親切のつもりで送ったのだし
自分もいつ同じような事をするか分からないので
批判するつもりはないけれど。
情報について考えてみるいいきっかけな気がしたのでここに。

放射能汚染が進んでいるというのが事実だとしたら
あるいは事実だと信じたのだとしたら
なぜそれをもっと大きな声で言わないのだろう。
なぜ自分の知っている範囲にしか伝えないのだろう。

少なくとも自分は
人より先に得る事で価値のある情報より
より多くの人と共有する事で価値の生まれる情報を
探したいし発信したいと思う。

ツイッターのメリットは
「情報が早い」事だと聞いた事がある。
しかし早く手に入れたことで生まれた価値は
多くの人が手に入れた時点で価値がなくなってしまう。

情報の早さで生まれる価値はゼロサムである。
早い情報を求めるのは
人より先に得て、知らない人から何かを奪って優位に立ちたい
という欲求な気がする。
だから例えばデイトレーダーは
何台ものパソコンから常に目が離せなくなる。

それが健全だとは自分には思えない。

たとえテレビから得る情報が遅かろうと
「より多くの人に伝えるべき事実だ」という確信を持って
責任の在処が見えるように発信された情報を信じていたい。

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限りなくゼロ

勤め先でインセンティブ制度の試みが始まった。
ポイントで示された自分の会社への貢献度は「ゼロ」だそうで…。

いや、
当たっているか外れているかは別にして
モチベーションをがっつりと持ってかれた感。

共同体を解体し個を極めるような方法が
未だに善と信じられているのは残念な事である。

おそらく雪かき仕事は
評価されないのだろうと思う。
雪かきは大人の仕事。

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あけおめことよろ


なんと今年初のブログアップ。
約2ヶ月もサボってしまった…。
まあ、義務でもなんでもないのでサボったっていいんだけど…。

こんな適当にやってると数少ない読者が
さらに少なくなってしまうのかな。
まあ、会うべき人とあって話すべき人と話しているから
別にブログの読者が少なくてもいいんだけど…。

いやいや2010年後半は本当に忙しかった。
仕事もプライベートも。
2011年になってようやく「予定のない休日」が戻ってきて
こうして昼間からPCにむかえるわけで。
2010年は楽しい年だったなぁ。


そして忙しかった甲斐あって新製品がかたちになりました、
という宣伝が2011初ブログ。



「りくの白黒動物」
今までの白黒動物をベースに新しい動物も加わってます。

「うみの白黒動物」
白黒動物の続編とでもいうべき海編です。



最初の白黒動物から3年を経てようやく二作目。
相変わらずのんびりなペースだけど
自分の感性に嘘つかないようにモノを作ると
いつもそれくらいになってしまう。

これは仕方ない。
そういうタイプなので。

今年も
そしてこれからもよろしくお願いします。

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看護の才能

看護科を目指して大学受験していた友人から合格の知らせ。

そのタイミングで看護についての文章に出会ったのでここにメモを。

医療に従事するのに
「わからないはずのことが分かる能力」が重要だ、と。

医師、看護師の中にはファーストコンタクトで相手の出身地や病状がわかったり、極端な場合には死期の近づいている患者を嗅ぎ分けたりする人もいるらしい。
どうもそれは論理的な推理から結論を出すのではなく結論が先にあって、後から考えると論理的にも説明ができる、といった類のものだそうで。

理論的な思考で得る結論より先に相手の状況を無意識に、ほぼ自動的感じ取ってしまう能力をして看護の才能と呼ぶのではないだろうか。その意味で友人は看護に行き着くべくして行き着いたのかもしれない。

友人は論理的な思考ができる。できなければ大学には受からない。
にもかかわらず論理的な思考が「わからないはずのことが分かる能力」に追いつけないことがある。自分がなぜそう感じたかを説明するのに時間がかかる、あるいは説明できない。
そのズレこそが友人の才能を証明していると、自分は思う。

ひょっとするとその能力のおかげで理解されずに苦労するかもせれないとも思う。それは「なぜ分かるのか本人にも説明できない能力」だからである。

才能というものは「あいつはできる」的に現場で噂されるより他に表に現れない能力のことである気がする。医療に限らず数値にも評価基準にも現れないのに現場で信頼を得ている人がいたとしたら「なぜできるのか自分では説明のできない能力」があると思って間違いない。

友人はそんな看護師になりそうな気がする。
楽しみにしておこう。

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